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#FREEUSHIKU 東日本入国管理センター訪問記録_0423

4月13日、東日本入国管理センター内のシャワー室で、ディーパク・クマルさん(32歳、インド人)が倒れているのが発見された。一時間後、搬送先の病院で、死亡が確認された。警察によれば、クマルさんの死は自殺である。4月15日から、クマルさんが収容されていた5Aブロックで、死にまで至らしめる長期収容と日頃の扱いに抗議するハンガーストライキが起きた。他のブロックの人々も続いた。このニュースを知り、ツイッターでさまざまな人が入国管理局について怒りと懸念をツイートした。そのうちの有志が、#FREEUSHIKUのハッシュタグで、4月21日からchange.orgの署名を始めた。

 

https://www.change.org/p/%E6%B3%95%E5%8B%99%E7%9C%81%E5%85%A5%E5%9B%BD%E7%AE%A1%E7%90%86%E5%B1%80-freeushiku-%E6%9D%B1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%A5%E5%9B%BD%E7%AE%A1%E7%90%86%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%BA%E7%94%B7%E6%80%A7%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E3%82%92%E6%98%8E%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97-%E9%95%B7%E6%9C%9F%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E3%82%92%E3%82%84%E3%82%81%E3%82%88-stop-indefinite-detention-at-japan-immigration-bureau-investigate-suicide-incidents?recruiter=44555640&utm_source=share_petition&utm_medium=copylink&utm_campaign=share_petition&utm_term=share_petition

 

 翌23日、#FREEUSHIKUでツイートしていた有志は、茨城県牛久にある東日本入国管理センターを訪問し、収容されている数名の方々と面会した。面会は、二つの部屋(便宜的に、A, Bと呼ぶ)で行われた。面会に際しては、長年にわたり入国管理局の問題に取り組んで来た方々が、収容者につないでくださった。面会の最初に、「現在の状況を、ご本人が了承できる範囲で、日本社会に伝えたい」と意図を伝え、了承を得た。以下に、できるだけ編集なしに、面会に応じてくださった方々の声を記録する。

 

A面会室

 Wさんは、2ヶ月前に牛久に移送されてきた。それ以前は、名古屋の入国管理局に1年、収容されていた。Wさんは、クマルさんと同室であり、クマルさんの死後はハンガーストライキを行ってきた。Wさんによれば、クマルさんは、保証人を通して入国管理局に仮放免について交渉していた。しかし、入国管理局は保証人からの電話にも応じなくなっていた。クマルさんは、4月12日、仮放免が却下されていたことを知った。翌13日の朝10時50分ころ、クマルさんはシャワー室に行き、二度と戻って来なかった。

Wさんは、ヒンドゥー教徒であるクマルさんが、朝のお祈りをする時間にいなかったことを記憶している。クマルさんは、11時40分ころに発見された。5Aブロックの人々は、今もショック状態のなかにある。

 

 クマルさんが亡くなったあと、抗議する収容者たちと入管職員が揉みあいになった。そのなかで、収容者のある青年が、「それならぼく死にます」と言って自分で自分の頭を壁に打ちつけた。彼は10人くらいの職員に押さえつけられ、その後5日間、「懲罰房」に入れられていた。また、揉み合いの際に、Wさんの時計も壊された。職員は番号のバッヂをつけているので、収容者を横暴に扱った職員たちの名前がわからない。その時に押さえつけに来た職員のうち、他の担当場所から応援に来た人たちは、番号標と階級標も外していた。

 

 Wさんによれば、クマルさんの死には、納得できないことが多い。まず、収容所には監視カメラが配置され、日頃は監視されているのに、着衣のままシャワー室に入って行ったクマルさんのことを、なぜ職員は見に行かなかったのか。また、クマルさんのご遺体をインドに輸送するお金は、インド政府が負担し、火葬は家族が負担した。入国管理局の扱いによって死に追い込まれたのに、遺体を放り出すだけでよいのか。インドに移送されたご遺体は黒い服で覆われていた。遺体なので、ご家族は着替えさせることもできなかった。クマルさんが、遺体を白い服で覆うヒンドゥー教徒であることは誰もが知っていたのに、入管で死なせておいて、なぜ調べればすぐに分かるような宗教的配慮すらしようとしないのか。

 5Aと5Bブロックにいる他のインド人が、クマルさんの死について「同じインド人として聞きたい」と職員問うたとき、職員は「それで?それがどうした?」という答え方をした。面会の最後に、Wさんは次のように述べた:「ここはナチの収容所だと思う。日本の国にどんな利益がありますか?日本にとっても税金の無駄遣いです。他にそんな国がありますか?少しも受け入れないのですか?」。

 

 つぎに面会したNさんは、同じブロックでハンガーストライキを行った。宗教的弾圧のため祖国に居られなくなってから、来日27年になる。知人友人も、祖国より日本のほうが多い。Nさんは、「日本人はわるい人たちではないと思っているのに、こうした経験をすることで、収容者が日本についてどう思うようになるか、それも懸念している」と述べた。Nさんは、収容されているブロックから面会室に来るまでも、何重もの扉を通らなければならず、危険な犯罪者のように扱われていると訴えた。一日に40分の運動時間があるが、運動場は外が見えず、上には網が張られている。

 

 三番目に面会した方は、クルド人としてトルコで民族的に差別されて命の危険に直面し、日本に来た。半年の在留許可を得たが、難民としては認められず、1歳、6歳、9歳の子供たち、そして妻と、引き離された。いま、他の収容者と同じく、期限もなく壁のなかに勾留されている。働いて家族を養いたいのに、そうすることができず、親戚に頼っているが、いつまで頼れるか分からない。家族が外でどうなるか分からないという、耐え難い不安のなかで、いつ出られるか分からない毎日をなんとか生きている。同じように半年の在留許可のあとに勾留されたひとで、仮放免されているひともいる。なぜ、自分だけそうならないのか、基準の説明もない。入国管理局の恣意的な裁量次第ということがつらい。運命を待つだけで、「頭がおかしくなりそう」な毎日を、家族との連絡を望みに、なんとか生き延びている。自分を待ってくれている、日本で生まれた子供たちの、トルコのIDカードには、Japaneseと記載されている。だが、日本は国籍を認めてくれない。「血が違う」と言うひともいるが、「私の子たちも、人間として同じ血ではないのですか」と思う。外国人は税金も払っている。自分以上に長く、何年にも渡って、明日どうなるか分からない毎日を送ってきた人たちが、収容所のなかにいる。ルールがおかしいと思う。変えてほしい。クマルさんの自死後、収容所内の人々のショックとパニックに関して、医療的配慮は行われていない。

 

B面会室

 

 Mさんは、収容1年7ヶ月。以前5Aにいたが、耐えられなくなり、暴れた懲罰で、2Bに移動させられた。運動不足のため、膝に水がたまっている。ハンストの影響で、食事をすることも困難になった。めまいが辛い。ハンストのために薬も控えていた。今の状態をなんとか治療したいが、入国管理局は、予算がないと言い訳して、受けさせてくれない。収容者は、みな同じ症状が体にあらわれる。母と一緒にいる娘(9歳)に会いたい。妻は、入管職員からMさんに「捨てられる」などと言われ、妊娠中であったが中絶し、預金を持ってどこかへ行ってしまった。多くの収容者が、家族関係について、入国管理局の言葉の暴力を経験している。入国管理局は、家族を怯えさせるような嘘を言うのをやめるべきだ。日本は平和な国というが、全然そんなことはない。アムネスティや国連も、この問題にまじめには取り組んでくれないと感じる。弁護士も、はじめは入管から出ることができると言われるが、金を渡されると連絡がつかなくなることも多い。収容者には、アジア、アフリカ、南米のひとが多い。日本がアジアの人達を嫌っているのは分かる。日本政府はアジア人やアフリカ人など、弱い人たちをいじめている。黒人でも、アメリカ人はやはり収容されていない。ジャマイカ人がひとり捕まっているのを知っている。

 

以上

 

公開日:2018年4月26日

文責:#FREEUSHIKU 2018年4月23日行動・参加者有志一同