スリランカ人女性のサチーニさんと再び面会した。
サチーニさんは前回の面会のとき、「ネームプレートを手で隠しながら暴言をぶつけられる」とも言っていたことを思い出し、入国管理局7階にある収容者面会のための待合室で、職員のネームプレートを観察する。アルファベット大文字と3桁から4桁の数字中央に入管のマークが重ねて印字され、非常に見づらい。
しばらくして、サチーニさん(スリランカ、女性)との二度目の面会が始まった。以下、サチー二さんの言葉をできるだけそのまま記す。
身体や頭が痛い。先週の金曜日外の病院に行ったけど、1日3回の痛み止めを処方された。その薬は目眩の副作用が起きるのでダメと言ったが、また出た。1週間の処方だが、あまりの目眩の酷さに、昨日から服薬をやめさせてもらう 。2017年11月22日に収容され、5カ月が経った。来月13日には、難民面接がある(難民認定の審査だろうか)。普通は1年経ってから面接を受けるが、私は4カ月。審査に通らなかったら、と今から非常に恐怖を抱いている。スリランカに帰りたくない。日本で暮らしたい。
前回の聞き取りから、入管職員による「帰れ、帰れ」という暴言が無くなった。友達も言われなくなった、と笑顔を見せた。食事がどうしても合わず、4カ月で6キロ痩せて現在39キロである。
サチーニさんは職員の接し方が丁寧になったと感じる。
つぎに、AさんとBさんと面会した。お二人は兄弟である。
兄のAさんはクルド人として10年日本にいるから、トルコに帰るに帰れない。トルコに帰ったら殺されるかもしれない 。日本は難民にとって良い国では無いと思い知る。クルド人には国が無いのに。
思い余ってアムネスティーに入管の中から電話するも、「細かなことに関われない」との答えに失望している。何のための人権団体か?
弟のBさんは、以前事故した足の関節が痛い。1年前は、牛久の収容所に入れられていた。トルコで家族が拷問にあい、トルコに帰ることが出来ない。外に居た兄を頼りにして居たのに、兄まで収容され、外にいる寄る辺ない家族が心配だ。
Aさんも、Bさんも、苛立ち、焦り、怒りが極限状態にあることが見てとれた。ギリギリな感じがピリピリとつたわる。
つぎに、Cさん(女性)と面会した。
連絡先を教えると、息子さんに伝えるとのこと。めまいや胸の痛みがあり、夜寝るとき、息が出来ない。思い詰め過ぎかもしれない。歩くとき、足が痛い。
難民申請した時点で、すでにオーバーステイになっていた。記憶障害がある。来年6月で、収容後1年になる。仮放免申請は、3回出した。収容されるまでちゃんとルールを守ってスタンプを貰っていた。18年日本に住んでいる。長い間、収容所に入れられて、どんどん病気になっていく。
(Cさんには、「出られるように助けて下さい」と手を合わせられた。入国管理局の前で抗議した#FREEUSHIKU の声が聞こえたと言っていた。HUMAN RIGHTS、HUMAN RIGHTS と聞こえて、意味がわかったと。英語のほうがわかる。「人権守れ」は、わからなかった。あとで若い収容者が教えてくれた。「人権守れ。覚えました。ありがとうございます。」)
公開日:2018年5月17日
文責:#FREEUSHIKU 2018年5月16日面会・参加有志一同